映画とは、光と影が織りなす「動く幻影」の集積であると同時に、時代という名の狂気が物質化する巨大な祭壇でもある。1980年代後半、日本全土を覆い尽くしたあの未曾有の熱狂、すなわちバブル経済という名の集団幻覚は、映画界にも数々の奇形的なモニュメントを打ち立てた。しかし、その夥しい「時代の産物」の中に群を抜いて異彩を放ち、もはや映画というフレームワークそのものを内側から爆破しかねない、あまりにも純粋で、あまりにも狂おしい一編が存在する。
1987年、村野鐡太郎監督によって世に放たれた『トリナクリア PORSCHE959』。
本作は、単なる商業映画の枠組みや、よくあるロードムービーの定義を遥かに超越している。それは劇映画の衣をまとった「物神(フェティシズム)への讃歌」であり、あるいはフィルムという網膜に焼き付けられた、1台の自動車と1人の伝説的音楽家を巡る、美しくも無謀極まる「観念の暴走」そのものなのだ。スクリーンから溢れ出るのは、時速350キロメートルで疾走する金属の塊が発する咆哮と、それに魂を売り渡した表現者たちの息詰まる熱量である。私たちはここで、映画という表現が到達した、ひとつの「至高の狂気」を厳粛に目撃することになる。
序章:金属の黙示録――ヴァイスアッハの咆哮から始まる神話
映画は、一切の猶予を許さず、西ドイツ(当時)・ヴァイスアッハのテストコースからその幕を開ける。冷徹なまでに機能美を極めたその場所に、1台の巨大なトレーラーが滑り込んでくる。重々しい扉が開かれたその瞬間、そこに鎮座する「それ」を目にした観客は、息を呑むほかない。ポルシェ959。それは当時、世界中の自動車マニアが名前を耳にするだけで平伏した、限定200台のみが注文生産されたという究極のハイテク・モンスターマシンである。
俳優・島本浩(隆大介)が、張り詰めた緊張感の中でそのコクピットへと身を沈める。周囲を取り囲むポルシェ社の本物のクルーたちの視線は一様に鋭く、ただの映画撮影を超えた「国家機密の実験」に立ち会っているかのような厳粛さが場を支配している。島本がキーを回し、エンジンに火を入れた瞬間、映画は音響的な快楽の絶頂を迎える。水平対向6気筒ツインターボが奏でる、金属とガソリンの交響楽。それは単なる機械の作動音ではない。来るべき世紀末を予言する、金属の黙示録の始まりを告げる咆哮なのだ。
速度が上がるにつれて、ヴァイスアッハの緑の風景は狂おしい速度で後方へと置き去りにされていく。矢田行男のカメラは、ポルシェ959のあらゆるディテール――流麗なワイドボディ、空力を極限まで計算し尽くしたリアウィング、そして路面を確実に捉える4WDの足回りを、狂信的なまでの執念で舐めるように捉えていく。この冒頭の数分間だけで、本作が目指すべき狂気のベクトルは完全に決定付けられている。これは「車が登場する映画」ではない。「車そのものが映画という時空を支配する」ための、凄まじい儀式なのだ。
だが、カメラがその圧倒的な走行シーンをひとしきり捉えた後、物語は突如として3ヶ月前の東京へと時間を巻き戻す。この時系列の切断に、論理的な必然性は存在しない。あるのはただひとつ、「まず最初に、世界最高峰の美を観客の脳裏に焼き付けねばならない」という、作り手たちのあまりにも純粋で傲慢なエゴイズムだけである。そして、そのエゴイズムこそが、この映画を駆動させるガソリンに他ならない。
第一章:東京の地下、あるいは狂気の揺籃
舞台は変わり、ネオンと喧騒が渦巻く東京のライブハウス。バブルの好景気に沸く都会の夜の底で、物語の歯車が軋んだ音を立てて回り出す。M-BANDの剥き出しのビートが炸裂し、若者たちの汗と熱気が充満する空間。その混沌の片隅で、玉岡しのぶ(小宮久美子)は激しい苛立ちを抱えながら、友人の二郎(貞永敏)と対峙していた。
「大変な評判じゃない。たった半年で、あの女優をトップスターに押し上げたんだろ?」
二郎の賞賛に対し、しのぶは吐き捨てるように返す。
「昨日まではね。彼女に逃げられて、事務所をクビになったわ」
芸能プロデューサーとしての栄光から一転して奈落に突き落とされた彼女の瞳には、しかし、絶望ではなく、次なる獲物を求める飢えた肉食獣のような光が宿っていた。彼女の視線の先には、同じ空間で酒に溺れている一人の男がいた。映画監督、立野晋太郎(峰岸徹)。かつて鬼才と謳われながらも、今は時代の波に取り残され、自らの表現の出口を見失って彷徨う孤高のアーティストである。立野は泥酔した眼差しで、その場に居合わせた俳優の島本浩を見つめ、突如として謎めいた言葉を投げかける。
「マサシ、いや、リュウ。君はトリナクリアを知ってるか」
トリナクリア。シチリア島の古き象徴であり、三本の脚を持つ不気味で神秘的なメデューサの紋章。その言葉が、アルコールの霧の向こうから放たれた瞬間、東京のライブハウスは一瞬にして、遥かなる地中海の乾いた風に浸食される。
翌朝、立野の薄暗い事務所には、目を覚ました島本としのぶの姿があった。泥酔した立野が、半ば強引に二人を連れ帰り、そのまま泊まらせたのだ。昨夜の記憶が定かでない立野に対し、しのぶはテーブルの上に1冊の未完成のシナリオを突きつける。そこには、ただならぬ情熱で『トリナクリア』という題名が刻まれていた。
「とにかくシナリオを見せてよ、立野さん。……幻の音楽家、マサシを追って旅する映画」
しのぶの言葉に、立野は当惑する。それは彼が酒の席で幾度となく語り、夢想し、しかし実現不可能として心の奥底に封印していた「幻の企画」だった。しかし、しのぶの直感は、その破綻を含んだ物語の中に、自らの運命を逆転させる唯一無二の「光」を嗅ぎ取っていたのだ。「トリナクリアを感じるわ。なんかこう、胸がキュンと来るのよ。ポルシェ・サウンドに、メカニックの極限を聞いたマサシ。彼を求める旅の映画は、きっと大成功するわ!」
素人の無謀な熱弁に対し、立野は冷徹に言い放つ。「夢物語だ。第一、素人の君には無理だ」
だが、しのぶは怯まない。「レコードやタレントなら、これまでいくつも作ってきたわ。スポンサーなら心当たりがあるの」
この瞬間、映画製作という名の、最大にして最凶のギャンブルが幕を開ける。しかし、もう一人の当事者である島本浩は、冷ややかな視線を崩さない。「俺も断る。ビジネスに女は信用できない。……それに、車はどうするんだ? この映画の本当の主役は、959だぞ」
島本は、狂おしいほどの熱量でポルシェ959という存在の特異性を語り始める。それは単なる移動手段としての機械ではない。最先端の航空宇宙工学をも凌駕する技術の結晶であり、選ばれた者しか乗ることを許されない神の領域の乗り物だ。「200台の限定注文生産、3年前に予約は締め切られている。日本に1台入るか2台入るか……。つまり、俺たちにとっちゃ『幻の車』なんだよ!」
手に入るはずのない最高級の車、そして姿を消した幻の音楽家。二つの「幻」が重なり合った時、この映画は呪われた宿命を帯びる。だが、しのぶという女の執念は、バブルという時代の追い風を受けて、不可能を可能へと変えていく。数日後、彼女は弾んだ足取りで立野の事務所に現れ、衝撃の事実を告げるのだ。
「ポルシェは手に入るわ。この映画に全面協力してくれる大物スポンサーを見つけたの」
製作担当として二郎を引き込み、しのぶはすでに動き出していた。立野の手元には、かつてマサシがこの世に残した最後のライブ・アルバム『トリナクリア』のレコードがあった。ターンテーブルが回り、針が落とされる。そこから流れてくるのは、どこか原始的で、民族音楽的な木琴やファゴットの響き、そして次第に混ざり合う不穏なシンセサイザーの変調音。それは「メカニックな音」という事前の言葉とは裏腹に、極めて土着的で、呪術的な音響であった。しかし、立野はその歪んだサウンドの奥底に、現代文明の終焉を聴き取っていた。
「マサシのサウンドは、我々にとって伝説的存在だった」と立野は、取り憑かれたような目でしのぶに語りかける。「マサシは活動中から、ほとんど人前に姿を見せない男だった。彼は、生で人間に伝わる音よりも、マイクやアンプ、すなわち『メカニズム』を通して伝わる音の方を信じていたんだ。やがて彼の興味は、楽器を超えて、より純粋なメカニックの音へと移行していった。ジェット機、オートバイ、そして、自動車……。それらの発する金属の叫びそのものが、マサシのサウンドとなったんだ。そして、彼は消えた。……マサシは、ひとつのイメージなんだ。マサシを捜す旅、それこそが、劇中の主人公『リュウ』の旅なんだよ」
立野の言葉は、次第に現実と虚構の境界を失っていく。「マサシの最後の手記に書いてある。ポルシェのエンジン音こそ、人類が到達した究極のメカニズムの音だと。リュウは信じている。ポルシェのニューモデル――959に乗ってヨーロッパを旅すれば、その究極の音に導かれて、必ずマサシに会えるとな」
この凄まじいまでのドグマ、論理的な飛躍を前にして、観客はただ圧倒されるほかはない。車を走らせれば、その音を聴いて幻の音楽家が現れる。このあまりにも強引で、メルヘンチックとさえ言えるオカルト的設定。しかし、バブルの時代は、この狂った設定に数億円の予算を与え、本物のポルシェ959をヨーロッパの地に立たせるだけのパワーを持っていたのだ。
第二章:欧州縦断――ヴァイスアッハからアルプスの白銀へ
かくして、撮影クルーは海を渡った。目指すは、ポルシェの本拠地である西ドイツ・シュトットガルト。彼らはポルシェ・ヴァイスアッハ開発センターの心臓部へと足を踏み入れる。そこでクルーを迎えたのは、他でもない「プロフェッサー・ポルシェ(フェルディナント・アレクサンダー・ポルシェ)」をはじめとする、本物のポルシェ社の幹部たちであった。
映画の劇中に、突如として挿入されるポルシェ社のPRビデオのようなインサート・カット。幹部たちが自社の歴史と、959に投入された最高峰のテクノロジーを厳かに説明するシーンは、ドキュメンタリーと劇映画の境界を完全に破壊する。本来であれば、映画のフィクション性を著しく損なうはずのこのシーケンスが、本作においては不思議な説得力を持って迫ってくる。なぜなら、監督の村野鐡太郎にとっても、主演の隆大介にとっても、この時点で「ポルシェ959をフィルムに記録すること」こそが、マサシを捜すという物語以上の「絶対的真実」になっていたからだ。
無事に銀色のポルシェ959の鍵を受け取った島本は、再びそのシートに身を埋める。ここから、映画は狂気的なまでの「ポルシェ959見せまショー」へと突入していく。ドイツの高速道路アウトバーンを滑るように疾走する959。カメラは、ある時は路面すれすれのローアングルから、ある時は並走するロケ車から、またある時は遥か上空からのヘリコプター空撮によって、その銀色の肢体を捉え続ける。
オーストリアの国境を越え、景色は次第に険峻な山々へと変化していく。劇中劇としての「リュウの旅」が撮影されているはずなのだが、驚くべきことに、映画の中で映し出されるのは、ただひたすらに車が走り、島本がハンドルを握り、ヨーロッパの美しい景色が窓外を流れていくという、極限までプロットを削ぎ落とした(あるいは放棄した)映像の連鎖である。オーストリアでのロケーションは、ただ雄大な自然の中を959が駆け抜け、夜にクルーたちが宿で夕食を囲むシーンだけであっけなく終了する。しかし、その中身の空虚さとは裏腹に、映し出される映像の贅沢さはどうだ。バブルという時代でなければ絶対に許されなかった、無意味にして至高の海外ロケ。それは、観客に対する最大の視覚的暴力であった。
国境を越え、クルーはイタリアへと突入する。アルプスの峻厳な雪山。真っ白に染まった銀世界の中で、銀色のポルシェ959が激しく雪煙を巻き上げながら疾走するカットは、本作における視覚的頂点のひとつである。四輪駆動の限界を試すかのようなその走りは、もはや映画の演出ではなく、純粋なマシンの性能テストそのものだ。
その過酷な雪山での撮影の休憩中、クルーのメカニック担当であるタカシ(藤タカシ)の元に、一人の男が近づいてくる。日本を出て半年間、バイク一台でヨーロッパを放浪しているという若者、英次(須藤正裕)である。
「加圧がないんだ……。エンジンの調子が悪くてさ」
ホームシックの寂しさを紛らわせるように話しかけてきた英次のバイクを、タカシは手際よく調べながら、ぶっきらぼうに、しかし確かな愛情を込めて言い放つ。
「お前の扱いが悪いんだよ。メカってのはな、女よりも焼き餅焼きで、デリケートに出来てんだ」
このタカシの台詞こそ、本作の底流に流れる「男たちのフェティシズム」を端的に表している。彼らにとって、機械とは魂を持った生身の存在であり、対話すべき対象なのだ。孤独な旅人である英次は、撮影クルーが放つ独特の熱気に惹かれるように、彼らの後を追ってミラノへと向かう。クルーの中に、もう一人の「彷徨える魂」が加わった瞬間であった。
第三章:モンツァの幻影、そしてシエナの迷宮
撮影隊は、イタリアモータースポーツの聖地、モンツァ・サーキットへと滑り込む。ここでようやく、劇中劇のヒロイン・アンナを演じる外国人女優、マリーナ(マリア・クリスティナ)が登場し、物語はにわかに劇映画としての体裁を取り戻そうとする。
広大なサーキットのストレートを、咆哮を上げて疾走するポルシェ959。その後方を、真っ赤なフェラーリが狂おしいほどの爆音を立てて追従する。銀と赤、ポルシェとフェラーリという、自動車史における二大巨頭がスクリーン上でデッドヒートを繰り広げる様は、まさに圧巻の一言に尽きる。しかし、そのチェイスには明確な物語上の理由が提示されない。なぜフェラーリは追うのか、アンナとは何者なのか。すべては謎に包まれたまま、舞台はサーキットを飛び出し、古都シエナの美しい街並みへと移行する。
中世の面影を色濃く残すシエナの石畳。車を降りた島本(リュウ)が、何かを追い求めるように彷徨い歩くと、その後ろをアンナが影のように静かに追う。迷宮のような路地裏。アンナはいつの間にかリュウを先回りし、言葉を交わすことなく、冷徹な視線を交わしたまま、すれ違って歩き去る。彼女は古い建物の窓を開け、眼下のオープンカフェで苦悩するリュウの姿を、じっと観察している。その視線は、まるでリュウの魂を値踏みしているかのようだ。
ついに大聖堂の荘厳な空間で彼女を追い詰めたリュウは、激情を爆発させて叫ぶ。
「なぜだ! お前は何を知っている? 何を俺から知りたいんだ!」 「マサシか! お前が知っているのは、マサシのことなのか!」
島本の迫真の絶叫が響き渡った瞬間、カットを遮るように冷酷な声が響く。「カット! 止めろ!」
メガホンを握る立野が、不満を露わにして島本に詰め寄る。「叫ぶんじゃない。島本、これはマサシに対する『思い』なんだ。マサシへの思い、それに対する『愛』なんだよ。声を荒らげるな!」
監督からの抽象的かつ観念的な演出指示に、島本は戸惑いと憤りを隠せない。観客もまた、立野が求めている「マサシ」というゲシュタルトの輪郭が、掴みかけた瞬間に指の間から零れ落ちていくようなもどかしさを覚える。立野の目指す映画は、あらかじめ完成された設計図を持つものではなく、撮影という行為そのものを通じて、五里霧中の中を彷徨うプロセスそのものだったのだ。
その夜、カマルドリィ隠遁所(修道院)の高潔な静寂の中で、撮影クルーは身を寄せる。島本は、激しい苛立ちを抱えたまま、立野に対峙する。
「監督……。俺たち、本当にマサシに会えるんですか? マサシは、本当に実在したんですか?」
島本の根本的な問いに対し、立野は遠い目をして答える。「いたさ。……だがな、959も、マサシも、トリナクリアも、リュウにはまだ、ひとつとして答えが分かっていないんだ」
島本は、冷笑を浮かべて看破する。「分かっていないのは、監督自身なんじゃないですか? そうでしょう」
立野は否定しない。ただ、静かにこう返すのだ。「探しながら撮る映画だって、この世には存在するさ」
監督のその一言は、映画製作という表現の極北における「敗北宣言」であり、同時に「絶対的な開き直り」でもあった。魂の拠り所を失った島本は、深夜、抑えきれない衝動に駆られ、クルーに無断でポルシェ959のエンジンを始動させる。夜の帳が降りたイタリアの古都を、ライトで切り裂きながら暴走する959。それは、言葉にならない男の肉体の叫びであった。
メカニックのタカシは、居候の英次のバイクのタンデムシートに飛び乗り、激しい爆音を響かせて島本を追う。激しい追跡の末、ようやく路肩に停まった959に追いついたタカシは、激昂して島本に詰め寄る。
「島本さん! 959は俺の責任の下にあるんだ! 勝手に乗るなんて真似は勘弁してください! この車を無事にシチリアまで届けるのが、俺の任務なんだ!」
しかし、島本がハンドルを握ったまま、寂しげな笑みを浮かべて呟いた言葉に、タカシは毒気を抜かれる。
「すまない……。今夜はただ、959と、1対1で話してみたかったんだ」
機械と対話する。その無骨で、しかし純粋極まる狂気。タカシもまた、同じ「メカの呪縛」に囚われた男である。彼はすべてを理解したように、納得の笑みを浮かべて島本を許すのだった。ここには、言葉を超えた男たちの、そして機械と人間との、歪んだ、しかし強固なホモソーシャルな絆が完結している。
第四章:ローマの斜陽、そしてバブルの崩壊
旅は続き、英次が自らの旅路へと戻るために戦線を離脱した後、撮影クルーは永遠の都・ローマへと足を踏み入れる。そこへ、日本から一人の芸能記者が取材に訪れる。大原(峰岸徹/二役あるいは別の記者役のニュアンス)が、立野に対して映画の本質を突く質問を投げかける。
「立野監督、あなたがこの映画を企画した時、この『ポルシェ959』という車に一体何を求めたのですか?」
立野は、ローマの古代遺跡を背景に、風に吹かれながら、本作における最大の「マニフェスト」を熱く、狂おしく語り始める。
「この車は、なぜ生まれたのか。人間は、なぜ959という怪物を創り出してしまったのか。……959は、我々がこれまで『自動車』という概念に対して抱いていたイメージを、明らかに超越してしまっている。それはもはや、単なる工業製品ではない。だからこそ私は、人間が創り上げてきた何千年という『時間の堆積』の上に、この959を置いてみたかった。数千年の歴史を持つ遺跡の上に、現代テクノロジーの極限を配置する。その衝突、その違和感の中にしか、見えてこない芸術性が確かにあるんですよ」
立野の言葉は、映画監督としての村野鐡太郎の脳内をそのまま代弁している。自動車を単なるガジェットとしてではなく、歴史と対比されるべき「現代の神話」として捉える視点。しかし、その高邁な芸術的理想が語られているまさにその裏側で、現実という名の冷酷な現実が、彼らの足元を確実に侵食し始めていた。
ホテルに戻ったプロデューサーのしのぶを待っていたのは、日本からの不穏な国際電話の沈黙だった。製作費の次回分の振り込みが、予定日を過ぎてもいっこうに行われない。焦燥感に駆られた彼女は、旅行代理店へと走り、数日遅れで届いた日本の新聞の紙面を目にする。そこに躍っていたのは、彼らの映画の命運を完全に絶たせる、最悪のニュースであった。
メインスポンサーである大手化粧品会社が、自社製品の薬品混入ミスによって大規模な死亡事故を起こした。会社は社会的信用を失墜し、すべての事業投資の凍結を発表。当然、映画『トリナクリア』への資金援助も、その瞬間に完全にストップしたのだ。
ポルシェ959の総額代金、当時4千万円。そのうち、まだ1千万円しか支払われていない。これまでの手持ちの資金で、日々のロケーション費用やクルーの滞在費は何とか賄えるかもしれないが、車両の残金が支払われない以上、ポルシェ社から車両の即時返還を要求されることは火を見るより明らかであった。映画の「真の主役」が、彼らの手から取り上げられようとしている。夢の終わりは、あまりにも突然に、そしてあまりにも世俗的な理由によって告げられた。
第五章:ナポリの遺言、そして「撮らない誇り」
しかし、しのぶと二郎は、現場の士気が崩壊することを恐れ、この致命的なトラブルを立野や島本ら撮影クルーには一切秘匿したまま、撮影の続行を決断する。何も知らないクルーは、南イタリアの混沌たる大都市、ナポリへと滑り込む。
ナポリ大学の薄暗い研究室。リュウ(島本)は、かつてマサシが身を寄せていたという日本人教授、スズキ(井川比佐志)を訪ねる。スズキは、マサシの滞在時の様子を、どこか哀れむような眼差しで回想する。
「マサシは、ほんの短い間だけここにいました。彼は、部屋に引きこもり、アラビア語の古い文献を、まるで何かに取り憑かれたように読み漁っていましたよ。……彼は、才能がありすぎたんです。あまりにも巨大すぎる才能は、人間を破滅させる。マサシはその後、さらに南――シチリアへと向かいました。彼が『トリナクリア』という言葉に惹かれたのは、決して偶然ではありません」
トリナクリア、それは迷宮の出口であり、同時に破滅の象徴。マサシの足跡が確実にシチリアへ向かっていることを確信したクルーは、興奮を胸にさらに南へと車を走らせる。しかし、カラブリア地方の荒涼とした大地に入ったところで、ついに彼らの前に「現実の刺客」が現れる。
ヤマシタ(堺正章)。日本のスポンサーの代理人であり、ポルシェ959を回収するために送り込まれた冷徹な執行官である。ヤマシタは、撮影中のクルーの前に立ち塞がり、冷酷に車両の引き渡しを要求する。
「おい、冗談じゃない! 俺はそんな約束、聞いた覚えはないぞ! 車は絶対に渡さない、撮影中だ!」
立野は激昂し、ヤマシタに掴みかからんばかりに拒絶する。しのぶが涙を浮かべながら事情を説明しようと口を挟むが、立野は「映画を撮っているのは俺だ! 口を出すな!」と声を荒らげる。映画監督としてのプライドが、現実の金の論理に対して激しく抵抗する。
しかし、事態の深刻さを察した島本が、ヤマシタが車に近づくのを力づくで止めようとしたその瞬間、立野の心の中で、何かがプツリと切れた。立野は島本の手を制し、急に憑き物が落ちたような、静かな、そしてあまりにも哀しい声で語りかけるのだ。
「……もういいんだ、島本。車を渡してやれ」 「何言ってるんですか監督! ここまで来て、959を諦めるっていうのか!」島本が叫ぶ。 立野は、寂しげに微笑む。
「島本、映画を『撮らない勇気』、映画を『撮らない誇り』だって、この世にはあるんだよ。映画なんてものはな……そんな、人生を賭けるほど大げさなもんじゃないさ」
これまで、狂気的なまでの情念で映画にすべてを捧げ、ポルシェ959という神話に執着してきた男が、最後の最後で放った「映画を撮らない勇気、撮らない誇り」という諦念の言葉。この台詞の持つ重みと、凄まじいまでのパラドックス。それは劇中の立野の言葉であると同時に、本作の破綻を予感しながらもフィルムを回し続けた村野鐡太郎監督自身の、血を吐くような告白ではなかったか。
しかし、監督のその哀切極まる姿に心を動かされたのか、あるいは彼らの放つ尋常ならざる熱気に気圧されたのか、冷徹な執行官であったはずのヤマシタは、ふっと息を漏らし、信じられない妥協案を提示する。
「……1週間だ。撮影のために、あと1週間だけ、この車を回収するのを待ってやる。その代わり、シチリアで必ず耳を揃えて引き渡してもらうぞ」
残された時間は1週間。文字通り、ポルシェ959の最後の命の灯火を燃やすための、死のロードが始まった。
終章:シチリアの終焉――伝説は沈黙の彼方へ
映画はついに、最終目的地であるシチリア島へと到達する。地中海の強烈な太陽が、すべてを白茶けさせる不毛の大地。ポルシェ959は、残された最後の時間を惜しむように、シチリアの海岸線を、山道を、狂ったように疾走する。
そして、終盤、物語はついに、観客が待ち望み、そして恐れていた「マサシとの対面」の瞬間を迎える。演じるのは、日本映画界の巨頭・仲代達矢。荒涼としたシチリアの集落、その片隅に佇む古い石造りの家の中に、その男はいた。かつて日本の音楽界を震撼させ、メカニックの音に魂を売った天才は、今や見る影もなく老いさらばれ、虚ろな瞳で佇んでいた。
「私はもう、君の知っているマサシではない。日本のことも、自分が日本人であることも、すべて忘れた」
掠れた声で語るマサシに対し、立野は万感を込めて問いかける。「マサシ……音を捨てたのか? あのアラビアの手記は何だったんだ」
マサシは、自嘲気味に微笑む。「あんなものは、もうやらない。飽きたんだよ。……本当のことを聞きたいか? 私はな、神秘に心を奪われ、あるひとつの教団の存在を知った。だが、その教団の正体は、ハシシ(大麻)を貪り飲む、ただの薄汚いヤク中の組織だった。私はそこで、薬漬けになって正気を失っていたレイラという女を助け出し、この町に連れ帰った。ただ、それだけのことだ」
数万キロの距離を越え、数億円の予算を投じ、最高峰のポルシェ959を走らせてまで追い求めた「幻の音楽家」の正体。それは、崇高な芸術的探求の果てに消えた神などではなく、異国の地で女のために音楽を捨て、麻薬の泥沼に足を踏み入れた、一人の無惨な男の現実であった。
さらに、マサシは自らの右耳を指差す。過度のドラッグと爆音によって、彼の右耳の鼓膜は完全に破壊され、もはや音を聴くことさえ叶わない体になっていたのだ。「もう、音楽はやれないのか」という立野の絶望的な問いに、マサシはただ静かに頷く。
その瞬間、立野の顔に浮かんだのは、絶望ではなく、妙に納得したような、救われたような笑顔であった。なぜなら、神話が現実の生々しい敗北によって解体された瞬間、立野の中で、この無謀な旅(映画撮影)は、美しくも無惨な「終わり」を迎えることが出来たからだ。
対面が終わり、映画は再び、虚構としての劇中劇のラストシーンへと切り替わる。シチリアの荒野を背景に、島本(リュウ)の、あまりにも観念的で、日常の言語から遊離したナレーションが、轟音とともに響き渡る。
「マサシは音を失った。 俺はシチリアを歩き続けた。 シチリアの太陽は、あまりにも眩しかった。 広がり続けるサウンドの中で、俺はマサシの魂に出会えたのだろうか。 解決とは、未熟な終焉。 いま、俺を包み込んでいるのは、青春という名の時間の成就なのだろうか……」
映画をすべて撮り終え、夕暮れのシチリアの海岸で、立野は車両を回収したヤマシタに向けて、静かに、しかし確信に満ちた声でこう告げる。
「マサシは、これで伝説になるんだ」
ヤマシタは何も答えず、ただ銀色のポルシェ959のエンジンを始動させる。その咆哮は、もはや映画のための音ではなく、冷酷な現実へと戻っていく機械の悲鳴のようであった。夕陽の向こうへと去っていく959のテールランプを見つめながら、映画は幕を閉じる。
結び:バブルの墓標としての『トリナクリア』
『トリナクリア PORSCHE959』とは、一体何だったのか。
一言で表現するならば、これは「映画」という表現媒体が、バブル経済という特異な時代の熱狂と、ポルシェ959という絶対的な物神(フェティッシュ)に文字通り「ジャックされた」幸福な事故である。全編の8割を占める、ストーリー上の必然性を著しく欠いたヨーロッパの美麗な走行シーン。書物からそのまま抜け落ちてきたかのような、生身の人間味を完全に排したカタログ的・観念的な台詞回し。そして、あまりにも強引極まるマサシの捜索方法。映画としての構造は、どこをどう切り取っても、およそ「整合性」や「完成度」といった一般的な評価軸からは遠く及ばない、破綻の極みにある。
しかし、だからこそ本作は、他の追随を許さない圧倒的な「愛おしさ」と「狂気」を放ち続けているのだ。低俗な宣伝映画、あるいはスタッフの公金横領まがいの海外旅行ビデオと揶揄されようとも、フィルムのひとコマひとコマに刻み込まれた、隆大介、峰岸徹、そして仲代達矢らの熱演は、決して嘘ではない。彼らは、その劇映画の滑稽なまでの無謀さを知りながらも、スクリーンの向こう側で、確かに「マサシ」という幻影を、そして「ポルシェ」という神話を、本気で生き、本気で追い求めていた。
バブルの崩壊とともに、この作品は人々の記憶から急速に忘れ去られ、各種レビューサイトの片隅に追いやられ、今やカルト映画としての市民権すら得られぬまま、映画史の闇へと埋もれてしまった。だが、もしあなたが人生の理不尽さに直面し、表現の迷宮で行き詰まった時、この『トリナクリア』を開帳してみるがいい。そこには、時代を丸ごと駆け抜けて自爆した、美しくも狂おしい男たちの「魂の残骸」が、時速350キロメートルの爆音とともに、今もなお爆裂し続けているはずだ。
マサシは伝説になったのではない。この映画そのものが、あの時代の、そして映画という狂気の、不滅の伝説なのだ。