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VHS 女教師仕置人 地獄の女神 かとうれいこ 相沢なほこ 荒井美恵子 川崎麻世 毒蝮三太夫 池波志乃 中尾彬 淡谷のり子 青野武 村西とおる

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バブルの狂乱が弾け飛び、その余熱と焦燥感が奇妙な歪みを生み出していた1990年代初頭の日本映像界において、ひとつの特異な「黒点」として君臨したレーベルが存在する。村西とおる(草野博美)が率いた日本ビデオ映画株式会社(JVD)である。同社が世に放った作品群は、Vシネマの隆盛という時代の波に便乗しながらも、その実は映画という表現に対する冒涜に近い低クォリティと、金銭への執着が生み出した畸形児の群れであった。かつてダイヤモンド映像が誇った、下品極まりない惹句と下俗なジャケットデザインの遺伝子は、そのままこのレーベルへと引き継がれ、視覚的な暴力となってレンタルビデオ店の棚を侵食していたのである。その最たる象徴であり、映画という表現の最底辺にして、ある種の超越的な虚無を体現している作品こそが、内田康夫監督、かとうれいこ主演による『女教師仕置人 地獄の女神』に他ならない。

本作を論じることは、映画批評におけるひとつの試練であり、精神的な苦行である。しかし同時に、バブル崩壊期の日本が内包していた映像の商業主義が、どこまで無惨に墜落し得たのかを記録する歴史的義務でもある。100分を超える上映時間の間、画面から漂い続けるのは、演出センスという言葉すら生温い、完全なる「表現の放棄」と、莫大な資金をドブに捨て続けることへの無自覚な鈍感さである。意味もなく画面を真っ赤に染める大爆破、海外ロケを敢行したという事実だけを免罪符にするかのような脈絡のないカットの連続。どれほど潤沢な資金を投入しようとも、映画の本質を欠いた映像は、ただの金がかかったゴミに過ぎないという冷酷な事実を、本作はこれ以上ない説得力で突きつけてくる。

この暗黒のレーベル、日本ビデオ映画の打率の低さは驚異的というほかない。パワースポーツのグラビアイメージビデオにしても、とりあえず逃げ場のない海外ロケでついでにAV撮影というアリバイ作りのためだけに作られたような代物であり、異国の景色の中でただ手持ち無沙汰に佇むモデルたちの姿からは、エロティシズムの欠片も、映像美の志も伝わってこない。それは本作『女教師仕置人』においても同様であり、何処の誰とも知れぬ、そして演出の基本すら持ち合わせていない内田康夫なる監督の采配は、全編にわたって壊滅的な破綻を見せている。後に村西とおるが語ったところによれば、この監督は製作費を着服したまま忽然と姿を消したという。映画の演出センスがゼロであるばかりか、人間としてのモラルすら欠落していた人間にメガホンを握らせていたという事実自体が、当時の日本ビデオ映画の杜撰極まりない制作体制を物語っている。

この「うんこ」と評するほかない作品にも一応見どころは存在する。それはビデオの巻末に収録された本田美奈子主演の『ダンディーとわたし』の特報だ。本田美奈子という早世の歌姫が、このような場違いな暗黒ビデオの末尾に、瑞々しい輝きを放ちながら収められているという歴史の皮肉。このインタビュー付きの特報自体は映像資料として極めて貴重なものであることは否定しないが、それが本作という巨大な汚物の付属物としてしか存在し得ないという事実に、目眩を覚えずにはいられない。

さらに、この時期の日本ビデオ映画の最大の特徴であり、同時に最大の謎であるのが、出演している女優陣の異常な豪華さである。かとうれいこを筆頭に、宝生桜子、盛本真理子、秋本奈緒美、嶋村かおり、八木さおり、向井亜紀、藤井一子、飯島直子、本田理沙、大西結花、渡辺千秋、立花理佐、酒井法子、可愛かずみ……。当時、テレビの第一線で活躍していたトップアイドルやトレンディ女優、グラビア界の女王たちが、なぜこのようなVシネまがいの悪趣味な作品群に、次々と引きずり込まれていったのか。当時の芸能界におけるどのような闇、どのような弱味が握られていたのか、あるいはヤクザまがいの恐喝があったのか、はたまた、常識を遥かに逸脱した金に物を言わせた破格のギャラにホイホイと釣られてしまったのか。その真相は闇の中であるが、彼女たちの輝かしいキャリアにおいて、これらの作品が消し去りたい黒歴史であることは疑いようがない。
本作『女教師仕置人 復讐の女神』の100分間は、観客にとっての過酷な監禁時間に等しい。映画が終わった瞬間、心には文字通り何も残らないのである。映画のラスト、かとうれいこ演じるヒロインが、怨敵に向かって「私には1日1日が1年に感じられたわ」と言い放つ印象的なセリフがある。しかし、その瞬間、テレビ画面に向かって日本中の、いや、世界中でこのビデオを再生してしまった不運な観客全員が、血の涙を流しながらこう突っ込んだはずだ。それは、この退屈極まりないビデオを100分間見せられ続けた、こっちのセリフだわ!」と。時間の感覚が狂うほどの苦痛。それこそが、本作が観客に与える唯一の確固たる体験なのだ。

この時代、日本ビデオ映画は同様の地獄を量産していた。高樹澪が泥にまみれて戦う『女ランボー』、柏原芳恵が悲痛な叫びをあげる『女死刑囚』、そして藤岡弘、宍戸錠という昭和の巨星たちを巻き込み、横須賀昌美の23分間に及ぶというレイプシーンだけを見どころとして謳った『汚れし者の伝説』……。これらの一連の暗黒史を網羅することには、皮肉にもひとつの実用的な利点が存在する。それは、これらの底辺を一度でも通過してしまえば、この世に存在する他のあらゆる映画が、どれほど拙劣であろうともまともな映画に見えてくるという、映画的免疫の獲得である。特に、映画監督を志す若者たちは、ハリウッドの名作を観るよりも先に、これらの作品を絶対に行ってはならない悪い見本として、骨の髄まで叩き込んでおくべきだろう。

もし、この『女教師仕置人』に対して、映画としての正当な評価を下そうとするならば、それは不可能である。なぜなら、本作は「映画」という表現形式の域にすら達していない代物だからだ。ならば、このビデオの正しい鑑賞法とは何なのか。それは、かとうれいこ、荒井美恵子、そして相沢なほこといった、当時をときめいた美女たちの「おっぱい」が露出し、あるいは激しく揺れるシーンだけを、リモコンの早送りボタンを駆使してピンポイントで抽出する、極めてフェティッシュかつ断片的な消費行動以外にあり得ない。ストーリーや演出といった夾雑物をすべて排し、肉体の記号だけを貪る。それこそが、この破綻した映像に対する唯一の復讐である。しかし、その行為の最中、ふと脳裏をよぎる不穏な影がある。これらの官能的なシーンの裏側で、村西とおるや、当時その一派にいた高知東生といった男たちが、「職権乱用」という名のもとに、その権力と欲望に任せて彼女たちの肉体を揉み、吸いまくっていたのではないかという、生々しい疑惑である。その想像が一度でも頭をかすめた瞬間、画面の中の甘美なエロティシズムは急速に冷や水を浴びせられ、観客の欲望は一気に萎え果てる。映画の裏に潜む男たちの脂ぎった欲望が、映像そのものの魅力を自ら殺しているのだ。

あらすじなど、ここに書き起こす気すら起こらない。プロットの体をなしていないのだから、文字にするだけ時間の無駄である。駄作の代名詞としてしばしば引き合いに出される『デビルマン』を思い出してほしい。あの作品には、まだあまりの酷さに失笑できるというエンターテインメントとしての救いがあった。画面に向かってツッコミを入れ、仲間内でゲラゲラと笑い飛ばすことができる。しかし、この『女教師仕置人』には、その笑いすら存在しない。ただひたすらに、凍りついたような退屈と、無感情な時間が流れるだけなのだ。見終わった後、ハートには何も、爪痕ひとつ残らない。画面の中で誰が死のうが、誰が復讐を果たそうが、観客の感想は一貫してだから何の一言で終わる。画面で起きているすべての事象に対して、1秒たりとも興味を持続させることができない。登場人物の誰一人として、感情移入する隙を与えないのである。

だが、この究極の虚無を経験することによって、私たちは逆説的な救済を得る。それまでは中身がスカスカで、記号的で、とても見られたもんじゃないと毒づいていた、同時代の日本のトレンディドラマ(フジテレビ系列を中心とした、あの華やかで薄っぺらい世界観)が、実はどれほど緻密に、どれほど高度な商業的計算と演出の技術によって構築されていたのかが、涙が出るほど理解できるようになるのだ。本作がやろうとしていることは、詰まるところ『スケバンデカマラ』の出来損ない、哀れな粗悪品に過ぎない。ジャン=リュック・ゴダールはかつて、「映画を作るために必要なのは、女と車と銃だけ」だという傲慢な名言を残した。確かに本作には、かとうれいこという極上の「女」がおり、ロケ地を走る「車」があり、復讐のための「銃」がある。ゴダールの言葉通り、要素だけは揃っているのだ。しかし、ゴダールはこう付け加えるべきだった。「ただし、それが観客にとって見るに値するものになるとは限らない」と。内田康夫は、ゴダールの言葉を最も悪質な形で実証してしまったのである。

さらに本作の悲劇、あるいは喜劇的なポイントは、中尾彬と池波志乃という、芸能界きっての名優夫婦が揃って出演している点にある。通常であれば、これほどの実力派が脇を固めれば、作品の格調やクォリティが多少なりとも底上げされるはずである。しかし、本作において彼らの存在は、完全に無駄遣いされている。その佇まいは、今は亡きダウンタウン松ちゃんの『ガキの腰使いやあらへんで!』の、かつて年末のテレビを賑わせた、「絶対に笑ってはいけない」シリーズに登場する、脈絡なく現れては視聴者を困惑させる「豪華芸能人の無駄遣い」のレベルと完全に同質である。彼らが大真面目に演技をすればするほど、周囲の演出の素人臭さと、シナリオの崩壊っぷりが際立ち、観客はどうすんのこれ?という、途方に暮れた感情に支配されることになる。

しかし、この暗黒の映画評を、単なる誹謗中傷と絶望だけで終わらせることは、本作のヒロインを務めたかとうれいこに対する冒涜となるだろう。彼女はこの映画の犠牲者であり、同時に唯一の救いなのだ。ここで強調しておきたいのは、本作の主題歌である『Virgin Heart』をはじめとする、かとうれいこが遺した全楽曲の素晴らしさである。幸いなことに、現代においては彼女の全音源が各種音楽配信サービスで配信中であり、聴くだけならば実質タダ、あるいは極めて安価にアクセス可能である。彼女のポップシンガーとしての歌唱力は極めて高く、楽曲のクォリティも、当時のJ-POPの黄金期を支えた一流のクリエイターたちによって、非の打ち所がないレベルで仕上げられている。

私たちは、彼女を単なるグラビアアイドルで「おっぱい」だけの存在として消費してはならない。私は、彼女のおっぱいだけでなく、その均整の取れた「ケツ」も含めた全身のプロポーション、そして何よりもその瑞々しいポップ・センスと歌声、表現者としての魂を、全方位から見つめ、評価しているのだと、ここに強くアピールしたい。

映画『女教師仕置人 復讐の女神』は、確かに映画の形をした産業廃棄物かもしれない。しかし、その地獄のような100分間を通り抜けた者だけが、巻末の本田美奈子の輝きに涙し、かとうれいこの『Virgin Heart』の美しさに本当の意味で救われるのである。この歪んだ快楽と、映画というメディアの底知れぬ深淵を体感するために、物好きな諸君は、とりあえずこのビデオをオークションや中古店で探し、買って、その目で確かめてみるがいい。そこには、二度と再現不可能な、バブルの墓標が建っている。