共表紙の半紙本(24.8×17㎝)墨付18丁
1丁角破損あり(図版でご確認ください)
本冊は山梨県南巨摩郡飯富(当時は合併して「中富村」となっていましたが、記主は「飯富」と表記しています)の開業医が明治29~33年にかけて著した旅行日誌4篇の稿本です。
当時はまだ中央線が開通しておらず富士川舟運がこの地の交通手段の中心で、川辺の町々は湊町の活気にあふれていたようです。そうした町々の活況と、既に開業敷設が始まっていた官設鉄道や富士馬車鉄道がもたらした新たな景色の混じり合う巷間を行き届いた筆致で描写しているのが巻頭の「南流日記」(①)です。
後半の「西山温泉紀行」(②)、「上相日記」(③)、「信陽行商記事」(④)は明治30年前後に飯富の開業医が担った医療の厳しい現実と、医師自身の経済的窮状に関する記録でもあります。これら三篇はいずれも決して「楽しい旅」の記録ではありませんが、読み進むほどに不思議と少し軽やかさを感じるのは、おそらく、自らが抱える困難を刹那脇に置いて旅先の町や人の要所を客観的に捉え描写してしまう記主の旅心ゆえかと思われます。しばしば逗留する町や村について知る限りの町勢・村勢のデータを控えているのは、当時地方医療に携わった開業医の一種の習性なのでしょうか。
収録された4篇の概要は概ね次のとおりです。
①「南流日記」
明治29年2月18日~25日 休暇旅行
墨付7丁 冒頭に「探見記行 序」
2月18日飯富を発足し、富士川舟運で岩淵行きの舟に乗船、まずは富河村に「望月氏」を訪ね、ともに田劇を見るなどして彼の家に二泊。
20日再び富士川舟運にて沼久保上陸、大宮(現・富士宮市)へ。ここでは東北に富士山が聳える町の風情や、製糸業が盛んになっていたこの町の当時の活況を丁寧に綴っています。
21日、富士馬車鉄道で大宮から鈴川、岩淵にて逗留。この町の賑々しい活気と喧騒を描写し、観劇した「大坂上り娘俳優ノ演劇」の感想も。
23日、官設鉄道で「興津行を見立て仲ノ郷停車場ヨリ下り汽車ニ乗」、興津では清見寺からの絶景、また「清水湊ニハ彼ノ日清役ニ於テ奮闘勇戦シタル吉野艦」が見物客に公開されていましたが、「海水浴入場」を期待して訪れた記主としては若干興ざめしたようで、市街を徘徊し、海水楼の壮観に驚き、裏町を彷徨うなど。末に興津の町勢を記録し、清見寺所見、岩淵停車場での出来事、車中の余談を追記し、当時の巷間の光景を存分に活写。
25日、帰路は徒歩で飯富まで。
②「西山温泉紀行」
明治29年5月17日~24日 医療出張
墨付4丁半
17日飯富発足、山中で一件往診したのち叔父宅に立ち寄り、18日目的地の西山村「新温泉場」に到着。当地滞在中は連日村長と共に種痘のため奈良田村へ出張しています。24日帰宅。末に「滞在中叔父ノ許ヘ送リタル文」、「奈良田村由来」など収録。
③「上相日記」
明治32年1月20日~2月22日
実入りのよい医療求職のため群馬の旧学友を訪ねる旅
墨付4丁半
1月23日馬車にて石和に至り、石和より勝沼行の馬車と歩行で黒田泊。馬車で野田尻下車、歩行にて相州久保駅から横浜道を進み川和村、佐久間を経て積雪泥路を歩み続けて八王子に着いたのは28日。同日午後1時30分発の汽車で東京飯田町へ。東京では大和錦看護婦会を訪ねるなどして、31日鉄道にて上野より大宮、下館、下妻に至り、継立にて水海道へ。人力車で川嶋に至り汽車で前橋に到着したのが2月4日午後10時。
帰路の途上鎌倉江ノ嶋を廻り、2月21日飯富に至り、22日帰宅。
④「信陽行商記事」
明治33年6月22日~7月6日
家計の助けになればと信州へ「叢雲膏」売薬行商の旅
墨付2丁