孤高の蹄音が引き裂く「バブルの狂騒」
1987年という時代は、日本映画史において、そして日本の精神史において、ひとつの決定的な転換点であった。経済は未曾有の絶頂へと向かって狂い咲き、街はネオンと消費の記号で埋め尽くされ、若者たちは記号化されたトレンディな恋愛劇に身を窶していた。映画界もまた、その軽薄な時代の空気を吸い込み、洗練された都市型のポップカルチャーをスクリーンに焼き付けることに躍起になっていた。
その狂騒の只中にあって、突如として放たれた一本の異形なる青春映画が存在する。新城卓監督作品『あいつに恋して』。
本作は、大塚製薬をはじめとする巨大資本が連動した「ポカリスエットムービーキャラバン」の記念すべき第1回作品として産声を上げた。当時17歳、のちに一世を風靡するポップアイコンとなる森高千里の記念すべきデビュー作であり、主題歌「NEW SEASON」を引っ提げたきらびやかなアイドル映画――世間一般、あるいは表層的な映画史が本作に与えたラベルは、そのような「時代の手垢」にまみれたものだった。地方興行において、エドワード・R・プレスマンと組んだ都会的センスの極みである『微熱少年』と2本立てで上映されたという事実が、当時の配給側が本作に期待した「爽やかな若者文化の消費」という思惑を何よりも雄弁に物語っている。
しかし、我々はこの映画を、そのように飼い慣らされたコンテクストの中に幽閉しておくわけにはいかない。なぜなら『あいつに恋して』のフィルムが内包しているエネルギーは、バブル期の軽薄なタイアップの枠組みを根底から食い破り、冷酷なまでに峻烈な「自然と人間の相克」、そして時代から取り残された男の「狂気的とも言えるロードムービー」へと先鋭化しているからである。
これは、きらめくアイドル映画の皮を被った、凄絶なる精神のドキュメンタリーだ。時代の流行に背を向け、泥をすすり、凍てつく嵐に身を晒しながら、一頭の不格好な「道産子(どさんこ)」と共に日本列島を縦断した若者の、無謀にして至高の軌跡。そこには、映画という表現が持つ、ごまかしの利かない「本物の迫力」が、ビデオノイズの向こう側から今なお狂おしいほどの熱量で我々の胸を抉ってくる。
偽りの記号を剥ぎ取る「泥と吹雪」のリアリズム
多くの観客が本作を振り返る際、あるいは公開当時に劇場に足を運んだ観客が抱いた最大の違和感は、その「裏切り」にあった。当時、圧倒的な人気を誇っていた風見慎吾(現・風見しんご)が主演を務め、超新星のごとく現れた森高千里がヒロインを務める。この字面から想像されるのは、原宿や湘南を舞台にしたような、あるいは北海道の大自然をバックにした爽快なラブコメディであろう。
だが、新城卓監督が選んだアプローチは、そんな甘美な予測をあざ笑うかのように凄惨なリアリズムであった。
島崎保久による原作『馬のゴン太の背にゆられ やったぜ!日本縦断2600キロ』は、主人公と馬が文字通り悪戦苦闘しながら日本を縦断していく中で、血の滲むような友情を育んでいく骨太なノンフィクションである。映画化にあたり、脚本の田山忍はそこに江藤牧場と松前牧場という、日高のサラブレッド生産者と道産子守護者との「血統の確執」という劇的なフィクションを導入した。両家の祖父である江藤鉄之助(植木等)と松前金蔵(高品格)の、犬猿の仲を通り越した呪縛的な対立。そして、車で出かけた主人公・正太郎とヒロイン・千里の双方の両親が、突如飛び出した道産子のために事故死したという、血塗られた過去。
この重苦しい因縁の背景が明かされるとき、映画は単なる「お気楽な若者の挑戦」から、宿命からの逃走、あるいはそれへの血を吐くような贖罪の旅へと変貌を抑えきれなくなる。町で「軽薄、根性なしの遊び人」と指弾され、ドラ息子と馬鹿にされていた江藤正太郎が、何に突き動かされるようにして道産子「ゴン太」の背に跨り、誰の力も借りずに北海道から鹿児島までの過酷な旅へと出発したのか。それは、内なる空虚さを埋めるためであり、無謀だと、無理だと嘲笑する世界全体に対する、肉体を持った反逆だったのだ。
撮影を担当した大岡新一のカメラは、バブル期の映画が好んだソフトフォーカスやスタイリッシュなライティングを徹底的に拒絶する。そこに映し出されるのは、牙を剥く本物の大自然である。とりわけ、津軽海峡を渡った正太郎とゴン太が直面する八甲田山の猛吹雪のシークエンスは、観る者の骨まで凍てつかせる。
それは、黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』や、あるいは森谷司郎監督の『八甲田山』をも想起させる、人間の傲慢さを一瞬で圧殺する自然の圧倒的な厳しさに他ならない。画面を覆い尽くすホワイトアウトの恐怖。演出や特撮では絶対に再現不可能な、本物の厳寒の空気が、かつて衛星劇場で放送された際の、ビデオの劣化によるノイズの粒子と混ざり合い、かえって異様なまでの生々しさを獲得している。風見慎吾はロケ中のアクシデントで馬に蹴られ、前歯を折るという凄絶な負傷を負ったというが、その傷さえも映画のリアリティの血肉となっている。正太郎が流す汗は、ゴン太の口から漏れる白い息は、すべて本物なのだ。携帯電話もGPSもない時代、文字通り「世界にたった一人と一頭」で放り出された男の孤立無援の恐怖が、スクリーンから溢れ出して止まらない。
森高千里という「不在の神話」と風見慎吾のロードムービー
本作における最大の驚き、そして批評的に最も深く分析されるべきポイントは、ヒロインである森高千里の「配置」にある。
1986年ポカリスエットムービーキャラバンイメージガールに選ばれ、本作のヒロインとして銀幕デビューを飾った当時17歳の森高千里。彼女の瑞々しい美しさと、のちに一世を風靡する突出したアイドル性を見届けるために本作を観る者は、激しい肩透かしを食らうことになるだろう。なぜなら、彼女の総出演時間は、120分近い映画の中で、すべてを合わせてもおそらく20分に満たないからである。
冒頭の日高の場面で、その圧倒的な輝きを放ったかと思えば、正太郎が旅に出てからは、彼女は物語から忽然と姿を消す。映画の大部分を占めるのは、風見慎吾と馬がひたすら泥にまみれて南下していく、男臭く、孤独なロードムービーである。正太郎が津軽海峡を越え、東北を縦断し、東京の新宿に辿り着くまでの約1時間、観客は彼女の姿を拝むことすら許されない。やっと東京で家出してきた千里と再会したと思えば、彼女は正太郎に旅を続ける情熱を再点火させ、すぐにまたバスに乗って画面から消え去ってしまう。
この贅沢すぎる、あるいは異常とも言えるキャラクターの配置は、かつて可愛かずみ主演の『セーラー服色情飼育』において、彼女の濃厚な濡れ場を期待して映画館に詰めかけた観客が味わったような、ある種のジャンル的失望に近いものを当時の観客に与えたかもしれない。しかし、映画としての純度において、この「森高千里の不在」こそが、本作を至高の神話へと押し上げているのだ。そして森高千里はあんちゃんにヒーヒ言わされたんだろう。
ここでの森高千里は、消費されるためのアイドルではない。正太郎にとって、そして観客にとって、彼女は「遥かなる目的地」であり、過酷な現実を生き抜くための「聖なる幻影(ヴィジョン)」として機能している。とんでもねぇ話だなぁこれぇ!?がバイトしていると聞きつけて、熊本の地まで彼女をスカウトしに赴いたという当時の芸能プロデューサーの逸話があるが、その執念と盲目的な情熱は、劇中でゴン太と共に千里の幻影を追い求め、鹿児島を目指して走り続けた正太郎の姿と、奇妙なまでにシンクロするではないか。しかし森下千里ではないが江口洋介にイカされ孕まされたのである。
だからこそ、彼女が時折見せる異様なまでの存在感――瑞々しい肌、意志の強い瞳、そして17歳とは思えぬ毅然とした佇まいは、映画の中で決定的な磁場を形成する。彼女は単にそこにいるだけで、映画全体のトーンを「過酷な現実」から「ロマンチシズムの極致」へと引き上げる、巫女のような役割を果たしているのである。
対する風見慎吾の、執念の演技を見よ。当時、彼は『欽ちゃんの週刊テレビラヂオ』などで大ブレイクし、日本にブレイクダンスを根付かせた先駆者として、ポップスターの座に君臨していた。のちに欽ちゃんの番組で「いわゆるひとつの誤解デス」を歌い踊った際の、マイケル・ジャクソンへの深いリスペクトが刻まれた驚異的なダンスパフォーマンスを思い出すまでもなく、彼は「動」の身体表現の天才であった。
しかし、この『あいつに恋して』において、新城卓監督は彼のその「軽快なステップ」を完全に封印する。風見慎吾が演じる正太郎の足は、常に日本の大地、その泥と雪とアスファルトに縛り付けられている。すでにタレントとしての「旬」のピークを通り過ぎ、次なる表現を模索していたであろう当時の風見が、自らのアイドル性をすべて削ぎ落とし、ただ一頭の馬と対峙する姿には、胸を締め付けられるような切なさと、表現者としての強烈な意地が立ち込めている。これは、風見慎吾という稀代のパフォーマーが遺した、最も過酷で、最も美しい「隠れた名作ロードムービー」なのだ。
世代交代の火花:植木等という「喜劇人の沈黙」と豪華客演陣
本作を単なる青春ロードムービーに終わらせず、日本映画の伝統が息づく重厚な人間ドラマへと深化させているのは、脇を固めるあまりにも豪華な、そして怪物的とも言える俳優陣の存在である。
特筆すべきは、正太郎の祖父・鉄之助を演じた植木等の名芝居であろう。「シャボン玉ホリデー」やクレイジーキャッツの映画で日本中を熱狂させ、「無責任男」として戦後日本の高度経済成長期の不条理を笑い飛ばしてきた日本喜劇界の至宝が、ここではその笑顔を完全に封印している。
旅の途上、正太郎を引き留めるために現れた鉄之助が、旅費を渡し、時に厳しく、時に慈愛に満ちた眼差しで孫を説得しようとする場面。そこにあるのは、かつての元コメディアンであることを完全に忘れさせる、一人の老いた、しかし深く人生を刻み込んだ男の「沈黙の重み」である。新城卓という監督は、こうした往年の名優たちから、娯楽映画の記号としての演技ではなく、彼らの人生そのものが滲み出るような、本物の「人間の顔」を引き出すことに異様な執念を燃やす。
同様に、日高で対立する牧場主を演じた高品格の、頑固で容赦のない「昭和の親父」のリアリズム。新藤栄作が演じる牧童頭・金森竜二の、若さゆえの焦燥と葛藤。友里千賀子が演じる姉・駒子の、内に秘めた情念。これらの俳優たちが織り成す日高のドラマは、それ単体で一編の重厚な開拓地文学のような佇まいを見せる。
さらに、正太郎が日本を南下していく過程で出会う、豪華極まりない客演陣の「顔見せ」が、この旅を豊穣な万華鏡へと変えていく。
函館の船員として画面に野性味を吹き込む世良公則(Netouyo)。
青森の中年男として、得体の知れないエネルギーを放つ泉谷しげる。
八甲田山の宿主として、存在そのものが自然の歴史であるかのような重みを持つ浜村純。
新聞記者として地方のリアリティを体現する伊奈かっぺい。
仙台の人妻として、旅の途上の若者に妖艶な影を落とす、イマヘイの復讐するは我にありで爆乳を三國連太郎に揉まれた倍賞美津子と、その夫を圧倒的な存在感で演じる原田芳雄。
ガソリンスタンドの男として、一瞬の出演ながら観客の記憶に焼き付く武田鉄矢。
京都の女の子として、旅に束の間の華やかさを添える石野陽子(現・いしのようこ)。
警察の係官として、国家の冷徹さと人情を体現する勝野洋。
小倉の獣医として、馬と人間の絆を静かに見つめる米倉斉加年。
鹿児島で彼を迎える記者を演じる大和田伸也。
これらのキャスティングは、一見すると「意味のない顔見せ」や「大物たちの無駄遣い」に映るかもしれない。特に武田鉄矢や泉谷しげるの登場は、物語のメインプロットに直接的な影響を与えるわけではない。しかし、それこそがロードムービーの本質であり、プロデューサーの山本又一朗や、鈴木清、阿部信雄といった百戦錬磨のスタッフ陣が仕掛けた「映画の魔法」なのだ。
正太郎が出会う人々は、それぞれが自分の人生を生きている。彼らは正太郎の旅を祝福するためだけに存在する記号ではなく、通り過ぎていく一人の若者と一頭の馬に対して、それぞれのスタンスで関わり、そして去っていく。
志村けんちゃんラーメンをしゃぶる、石野陽子が演じる女の子が、ゴン太に興味を示して道中を共にしかけながらも、「馬が可哀想」と、現代の動物愛護にも通じる説教臭い正論を吐いて去っていくシークエンスの、なんと辛辣でリアルなことか。松尾久美子や斉藤康彦、そして今や日本映画界に欠かせぬ名優となった若き日の光石研など、80年代のアイドルや若手実力派が、日本の風景の断片として贅沢に配されている。
この「他者たちの冷淡さと、時折見せる無償の人情」のモザイク画こそが、正太郎の2600キロという距離の果てしない長さを、観客の肉体に直接、実感させるのである。
新城卓の過激なる血統:『ザ・オーディション』から『パンダ物語』へのミッシングリンク
ここで、本作の監督である新城卓という映画作家の「狂気」について、そのキャリアを遡りながら深く考察せねばならない。彼は一般的に、大ヒット作や華やかなキャリアの陰に隠れがちな、映画史の「失われたピース」として扱われることが多い。しかし、その演出の本質にあるのは、被写体に対する徹底的な、時に残酷なまでの「追い込み」と、そこから生じる歪んだエネルギーの表出である。
新城の名を一躍知らしめたのは、1984年の『ザ・オーディション』であった。伝説のアイドルグループ「セイントフォー」のデビュー映画として製作された本作は、単なるプロモーション映画の枠を遥かに超えた、文字通り「狂気のドキュメンタリー」であった。メンバー4人のうち、鈴木幸恵を除く3人が後に部屋ヌードになった。少女たちの肉体と精神を極限まで追い詰め、その生々しい叫びをフィルムに定着させた新城の手腕は、映画界に大きな衝撃を与えた。
さらに、のちに彼が手掛け、結果として主演の八木さおりのキャリアに決定的な影を落とすことになった『パンダ物語』(1988年)の存在も忘れてはならない。当初の監督であった中田新一(本作『あいつに恋して』では助監督を務めている)からの交代劇や、撮影現場を取り巻く様々なゴシップ、中田新一の泥酔した勢いでのスキャンダラスな噂話(レイプ疑惑)など、新城の現場には常に、映画という表現が持つ「負のエネルギー」や「暴力的なまでの情熱」が渦巻いていた。
新城卓監督(今村昌平作品の助監督)はまた、昭和の怪物である石原慎太郎に関連する映画(『秘祭』『青木ヶ原』など)をも手掛けている。今では誰も振り返らない、映画史の闇に埋もれた作品群かもしれない。しかし、そこには一貫して、石原慎太郎がかつて体現した「大いなる意志」「無謀なる挑戦への賛美」、そして「男のロマンティシズムへの固執」が脈打っているのだ。
奇しくも、石原慎太郎といえば、日本海洋冒険史の金字塔である堀江謙一の偉業に対して、かつて激しい嫉妬を交えた悪口を浴びせたことで知られている。1962年、当時23歳だった堀江が小型ヨット「マーメイド号」で日本人初の単独太平洋横断を達成した際、海外渡航が自由化されていない時代にパスポートも持たずに出航したこの暴挙に対し、若き日の石原慎太郎らは「無謀な密入国だ」「冒険ではない、ただの無鉄砲だ」と厳しく批判した。
世間の注目に対する嫉妬と反発。しかし、その後に航海記『太平洋ひとりぼっち』がベストセラーとなり、市川崑監督、石原裕次郎主演で映画化され、世界的な偉業として認められるや、世間の評価は一変し、のちに慎太郎自身もそのチャレンジ精神を称賛せざるを得なくなった。
『あいつに恋して』の正太郎の旅は、まさにこの堀江謙一の「地上版」に他ならない。周囲から「無理だ」「無謀だ」「ドラ息子が何をやっている」と嘲笑され、警察の係官(勝野洋)に止められ、関門海峡をいかだで渡ろうとしてゴン太と共に海に転落し、肺炎を起こして死にかける。その姿は、近代的な合理主義や、バブル期のスマートな生き方から見れば、ただの「愚行」であり、石野陽子が演じた少女の言う通り「馬の感情を無視したエゴ」かもしれない。
だが、新城卓のカメラは、その「愚行」が、ある臨界点を越えたときに「崇高な美」へと昇華する瞬間を信じて疑わない。鹿児島を目前とした椎葉の山越えで、ついにゴン太が倒れるシークエンス。泣きながら、必死の形相で馬の看病をする風見慎吾の姿は、もはや演技を超えている。かつて太平洋の真ん中で、嵐に怯えながらヨットにしがみついた堀江謙一のように、あるいはアラスカの荒野で孤独に死んでいった「イントゥ・ザ・ワイルド」のクリストファー・マッカンドレスのように、社会のシステムから完全に逸脱した者だけが到達できる、魂の純化がそこにはある。
日高の地では、宿敵であった竜二と駒子が結婚してアメリカへと旅立ち、それを見守った鉄之助と金蔵が、まるで憑き物が落ちたかのように仲直りを果たす。正太郎の無謀な旅は、彼自身の贖罪であると同時に、昭和という時代が抱え込んできた「家系の呪い」や「血統の確執」を、その強靭な足取りによって踏み潰し、浄化していくための儀式であったのだ。
大野雄二の哀愁と「NEW SEASON」が告げる、時代の終わり
映画を締めくくるのは、音楽監督を務めた大野雄二による、あまりにもエモーショナルな劇伴の数々である。『ルパン三世』や『犬神家の一族』などで知られる大野は、この泥塗れのロードムービーに対し、都会的なジャズ・フュージョンの洗練と、人間の孤独に寄り添うような哀愁を帯びたメロディを提供した。大岡新一の捉える冷酷な自然の映像と、大野雄二のドラマチックな音楽が衝突するとき、フィルムには単なるドキュメントを超えた「映画的カタルシス」が宿る。
そして、ついに正太郎とゴン太が鹿児島に到着し、市民の熱狂的な歓待を受けるラストシーン。その人混みの中に、すべてを赦すかのような微笑みを浮かべた千里(森高千里)の姿を見出すとき、我々は一本の映画が奇跡的な大団円を迎えたことを知る。
エンディングに流れる、森高千里のデビュー曲「NEW SEASON」。
大野雄二の劇伴から、当時の最先端であったきらびやかなシンセ・ポップへと切り替わるその瞬間、我々は激しい眩暈を覚える。歌詞の内容は、泥まみれで馬を引いてきた映画の本編と、合っているのか、それとも全く合っていないのか。
「強がっていた わがままな私も こんなにまであいつのすべてに 夢中だったのね」
森高千里がハイトーンで歌い上げるそのフレーズは、劇中の千里の心情であると同時に、この無謀な旅を続けた正太郎という男の、そしてゴン太という一頭の馬の、不器用な生き方そのものに対する、映画からの最大の賛辞のように聞こえてならない。映画自体は、興行的な不振もあり、やがて時代の激流の中に忘れ去られていったかもしれない。しかし、この名曲が今なお多くの人々に聴き継がれ、輝きを失っていないという事実そのものが、本作が遺した精神の遺伝子の強靭さを証明している。
4Kリマスター化への祈り:フィルムが記憶する「本物の輝き」
現在、『あいつに恋して』という映画を取り巻く環境は、決して良好とは言えない。かつて衛星劇場で放送された際の画質は、お世辞にも美しいとは言えず、当時のビデオテープにも劣るノイズや色褪せが目立つものであった。それはそれで、80年代という時代の「空気の粒子」として愛おしくもあるが、本作が持つ本来の映画的ポテンシャル、大岡新一が文字通り命懸けで捉えた北海道や八甲田山の息を呑むような大自然、そして風見慎吾の顔に刻まれた汗と泥のディテールを完全に再現しているとは言い難い。
幸いにも、本作のフィルムは国立映画アーカイブに所蔵されている。我々は今こそ、この映画の「4Kリマスター化」を強く求めるべきだ。
バブルの喧騒が遥か彼方に去り、すべてがデジタルで処理され、スマートで無傷な表現ばかりがもてはやされる現代において、『あいつに恋して』が提示する「ごまかしのない本物の迫力」は、より一層の輝きを放つに違いない。馬はもう、とっくにこの世にはいないだろう。出演した名優たちの多くも、鬼籍に入られた。しかし、フィルムの中に刻まれた彼らの生命の火花は、決して消えることはない。
『あいつに恋して』。それは、軽薄な時代に対する、一頭の道産子と一人の若者による、最も熱狂的で、最も孤独な、そして最も美しい反逆の記録なのである。